
中尾ミエさんの若い頃の勝気すぎるヤバいエピソードをまとめています。
弱肉強食な芸能界を乗り切すためもあったでしょうが、なかなかにたくましい女性だったことがわかります。
中尾ミエさんの若い頃のエピソードをみてみましょう!
Contents
中尾ミエの若い頃のヤバいエピソード
①スパーク3人娘に不満を抱いていた
1961年中尾ミエさんが15歳の時に園まりさん・伊東ゆかりさんらと「スパーク3人娘」を結成。
結成した翌年には中尾ミエさん単独でリリースした楽曲「可愛いベイビー」が大ヒットし一躍スターの座に駆け上りました。
そんな当時の中尾ミエさんは園まりさん・伊東ゆかりさんとユニットを組まされていたことに不満を感じていたのだとか。
単独でのヒット曲を持っていない園まりさんや伊藤ゆかりさんと組まされることに足を引っ張られると思っていたようです。
さらにスパーク3人娘での紅白出場となった際には
「なんで3人で紅白に出場しなきゃいけないの?」
と、大喧嘩をしたこともあるようです。
当時、血気盛んな高校生ですし自尊心の強い中尾ミエさんにとっては不満があったのかもしれませんね。
結果的に、ヒット曲も出せず低迷期に入った頃には園まりさんや伊東ゆかりさんらに助けられたと言います。
他メンバーが順番にヒット曲を出してくれたおかげでなんだかんだやってこれたと感謝をするようになったようです。
②マネージャーを次々にクビ
中尾ミエさんの当時所属していた事務所ではマネージャーは”大卒”を前提に採用していたのだそう。
しかしマネージャーとしての力量は学歴には関係ないというように
「大学を出たからって何の役にも立たない」
と、中尾ミエさんは当時のマネージャーに強く当たっていたようです。
そんなこともあり、中尾ミエさんについたマネージャーが何人もクビになっていた過去があるようです。
最終的に中尾ミエさんのマネージャーを担当する人が誰もいなくなったのだとか。
さすがに当時の社長に「自分でマネジメントをやれ」と叱りを受けたこともあるようです。
ただ、中尾ミエさんは理不尽に当たりの強い態度をしていたわけではなく仕事としてできない人に限っていたのだとか。
当時の事務所の社長からも
「言っていることは正論だが、それだけでは通用しないこともある」
と指摘されたこともあるようです。
若気の至りというのでしょうか、年齢を重ねるうちに人間関係の大事さがわかるようになったといいます。
③武家屋敷からの貧しい子供時代
中尾ミエさんは6人兄弟の4番目の子として育ち、実家はお爺さんの代から書店を経営されていたのだそう。
お家は武家屋敷のようなご立派な住まいだったそうです。
しかし典型的な2代目だった父親は遊び惚けるあまり商売をつぶしてしまったのだそう。
そこから立派な家から転がり落ちるように貧しい子供時代を過ごしていたようです。
最終的に6畳と4畳半の小さな家に8人家族で住んでいたのだとか。
さすがにまずいと感じた中尾ミエさんは「あたしが働かざる得ない」と芸能界に飛び込んだようです。
④和田アキ子と口喧嘩すれば勝つ
中尾ミエさんというとかなり勝気な印象のある女性ですが、アノ和田アキ子でさえ封じてしまうほどなのだとか。
一般の視聴者の間では「芸能界で和田アキ子を怖がる人が大半」というイメージが多少ありますよね。
しかし、和田アキ子さんを上回る強い女性が中尾ミエさんなのだとか。
美川憲一さんからは「和田アキ子と口喧嘩すれば勝つ」と言わしめるほどの気の強さと歯に衣着せぬ物言いのようです。
実際には和田アキ子さんは中尾ミエさんの後輩であり、デビュー当時にいじめられていたところを助けれた恩があるのだとか。
なので、口喧嘩など毛頭起きることはないでしょうがなかなかに口が立つことは事実のようです。
⑤梓みちよと取っ組み合いの喧嘩の日々
中尾ミエさんはデビュー当時事務所の社長の自宅に下宿していたようです。
そんな同じ時期に下宿していた梓みちよさんとは日々取っ組み合いの喧嘩をしていたのだとか。
頻繁に喧嘩する二人を止めていたのはスパーク3人娘の園まりさんと伊東ゆかりだったようです。
喧嘩ばかりで仲は良くなかったようですが、よきライバルだったと話されています。
まとめ
中尾ミエさんの若い頃の勝気な性格がわかるエピソードをまとめてみました。
当時の芸能界はまさに弱肉強食だったのでしょうが、なかなかに凄い話ですよね。
現代ではなかなか居ない勝気な中尾エミさんの若い頃のエピソードでした。